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原田照子
照子は、駿河台側崖地に椿を植え茶室椿荘を築き「椿夫人」と称されたが(有島暁子[熊雄妹の信子の嫁ぎ先の画家・小説家有島生馬の娘]の証言[有島生馬『思い出の我』中央公論美術出版、1976年、あとがき])、明治43年原田一道が死去すると、原田熊雄が襲爵したので、明治27年に早逝した原田豊吉は男爵になることはなく、当然照子も男爵夫人になることはなかった。
照子は、大正9(1920)年1月14日、51歳でスペイン風邪で病死するから(勝田龍夫『重臣たちの昭和史』上、50頁)、ここから照子の生年月日を推定すると明治2(1869)年1月1
4日以前となり、実父ベアの訪日時期は明治元年前半以前ということになる。朝日新聞死亡広告(大正1月17日付)に原田熊雄は「母照子病気の処、本日午前三時永眠致候間、乍略儀本広告を以て御通知に代へ謹告仕候」「葬儀は仏式とし 来17日午後2時より同四時まで神田区裏猿楽町6番地本邸に於て告別式執行可仕候 大正9年1月14日男爵原田熊雄」と記している。以後、命日には「椿会」を開催している。
一 ケーべル下宿
照子とケーベル 豊吉妻の照子は、実父の祖国ドイツの言語を話し、明治26年にドイツから東大に哲学指導に来たラファエル・フォン・ケーベル(Raphael von Koeber、ドイツ系ロシア人)に駿河台別邸(この敷地の一部が下記清国留学生会館に提供)を宿舎(元は日仏会館、現在は池坊学園)に提供して、日独文化交流にも貢献した。明治29年の「ドイツ人ラフエール・フオン・コイベル原田豊吉借家借住の件外務大臣へ上申指令及警視総監へ通知」(東京都公文書館)によると、ケーペルは豊吉から洋館を借りたことになっている。豊吉は既に明治27年に死去していたから、正確には「故原田豊吉借家」というべきであろう。
ケーベルはピアノも演奏し、照子の娘信子にピアノを教え、原田熊雄の長女美智子が嫁いだ勝田龍夫執筆の『重臣たちの昭和史』(文藝春秋、1981年)によると、猿楽町原田邸に「照子が森鴎外を招くときにも、ケーベル博士は同席してピアノを弾いて興じた」(22頁)とある。
ケーベル邸の静寂さ 明治44年7月10日夕方、夏目漱石は駿河台鈴木町のケーベル邸を訪問して、その様子を「ケーベル先生」(夏目漱石「ケーベル先生」[『漱石全集』第十巻、漱石全集刊行会、昭和11年])として7月16日・17日朝日新聞に発表している。ケーベル邸がいかに静寂な環境にあったのかをこれで確認しておこう。
漱石は、「甲武線の崖上は角並新らしい立派な家に建て易えられていずれも現代的日本の産み出した富の威力と切り放す事のできない門構ばかりである。その中に先生の住居すまいだけが過去の記念かたみのごとくたった一軒古ぼけたなりで残っている」と、駿河台の豪邸の中で異色なケーベル邸を描写する。ケーベルは、「この燻ぶり返った家の書斎に這入ったなり滅多に外へ出た事がない。その書斎はとりもなおさず先生の頭が見えた木の葉の間の高い所であった」と、木々に囲まれた書斎生活を指摘する。
さらに、漱石は、このケーベル書斎について、「先生の書斎は耄け切きった色で包まれていた。洋書というものは唐本や和書よりも装飾的な背皮に学問と芸術の派出やかさを偲ばせるのが常であるのに、この部屋は余の眼を射る何物をも蔵していなかった。ただ大きな机があった。色の褪めた椅子が四脚あった。マッチと埃及煙草と灰皿があった。余は埃及煙草を吹かしながら先生と話をした。けれども部屋を出て、下の食堂へ案内されるまで、余はついに先生の書斎にどんな書物がどんなに並んでいたかを知らずに過ぎた」と、脱俗性を描写した。
ケーベル邸の静寂さについては、「先生の生活はそっと煤煙の巷に棄てられた希臘の彫刻に血が通い出したようなものである。雑鬧の中に己を動かしていかにも静かである。先生の踏む靴の底には敷石を噛む鋲の響がない。先生は紀元前の半島の人のごとくに、しなやかな革で作ったサンダルを穿いておとなしく電車の傍を歩いている」と、的確に描写する。
二 清国留学生会館
清国留学生の増加 日清戦争敗戦は、「アヘン戦争以上に中国の知識人に衝撃を与え」、変法派の党首康有為と梁啓超や清朝重臣張之洞らが、日本近代化を学ぶための日本留学を提唱し、明治29年に「国内選抜を経て、最初の13人の留学生が東京に送られ、日本文部省のアレンジによって高等師範学校の嘉納治五郎門下に入った」(周嘉寧「革命前夜の日本への「清国留学生」について」[東京大学『ぎんなん』28号、2013年度])。
日露開戦で、明治38年1月旅順陥落、3月奉天大勝利となると、清国留学生は急増した(さねとう・けいしゅう著『中国人日本留学史』56−7頁)。こうして、清国留学生は、明治32年200人、35年500人、36年1000人以上、38年8000人、39年10000人以上に増加して、その9割が東京に集中した。この清国留学生の中には、魯迅、秋瑾、鄒容、陳天華、黄興、宋教仁、曹汝霖、汪兆銘などの有名人も含まれ、彼らが1911年辛亥革命を引き起こすことになる(周嘉寧「革命前夜の日本への「清国留学生」について」[東京大学『ぎんなん』28号、2013年度])。
こうした清国留学生急増は、私学の新設や既存大学の受入れ施設拡充をもたらした。前者の例として、明治35年に、高等師範学校長嘉納治五郎は、清国留学生受け入れ機関として弘文学院を開設した(武石みどり監修『音楽教育の礎:
鈴木米次郎と東洋音楽学校』東京音楽大学創立百周年記念誌刊行委員会編、春秋社、2007年、80頁)。後者の例として、38年9月11日、早稲田大学では清国留学生部を設置し、ここへの入学者は明治39年762人、40年850人、41年394人となった(さねとう・けいしゅう著『中国人日本留学史』73−4頁)。さらに、「多くの留学生は私立学校、特に予備学校の「速成コース」、つまり「通訳つきの」「修業期間が非常に短いコース」に入った。清国政府の第二回留学帰国者登用試験では、「留日の受験生が圧倒的に多かったにも関わらず、優等と判定されたのは欧米から帰国した留学生ばかり」(周嘉寧「革命前夜の日本への「清国留学生」について」)であり、日本留学清国青年の質は低下していた。
清国留学生会館の設置 この様な清国留学生激増過程の明治35年3月、「神田区駿河台鈴木町18番に清国留学生会館が開設された」(武石みどり監修『音楽教育の礎』77頁)。これは、清国公使館など清国政府サイドを中心に清国留学生の教育経験者らが動いて、増加する留学生の管理のために設置されたと考えられる。これに関して、Gao
Jing氏は、「清国留学生会館が駐日公使とその他の援助のもとにでき」、公使は「亜雅教育会の会長」に就いたと指摘する(Gao
Jing.「鈴木米次郎の清国留学生に対する音楽教育との関わり」『人間と社会の探求』慶応義塾大学、61号、2005年)。
鎮国将軍・載振(乾隆帝第17子に始まる清国王族)の『日記』によると、「光緒28年(明治35年)8月4日、この日、中国留学生五百余人、歓迎会を会館に於てなし、余に一たび臨存せんことを請う」(さねとう・けいしゅう著『中国人日本留学史』53頁)とあり、清国王族の歓迎会が設定されている。9月5日に載振は求めに応じて、再びここを再訪し、明治35年9月6日読売新聞「載振殿下の訓諭」によると、「昨日正午駿河台の支那学生会館に於て成城学校、弘文学校、同文書院、精華学校、帝国大学、高等商業学校其他の留学生四百余名を召集せられ、西洋各国の興隆したる所以、清国の甚だ振はざる所以、全く新学問の講ぜられさるに由るを以て、汝等斉しく勉励千里遠遊の志に負(そむ)く勿」と訓話すると、留学生総代が「答詞を述べ」ている。留学生会館が、留学生に清国振興を担わせようとする清国政府の強い影響下におかれていることが確認される。
こうして清国政府は留学生管理のために清国留学生会館を造ったが、それを側面から援助した一人が敷地を提供した原田照子と思われる。照子は、新聞報道や近隣で見かける清国留学生の多さや、留学生会館の必要性については理解を示し、上述の如き静寂なケーペル邸の一部の敷地を会館用地として提供したのであろう。しかし、照子の心を動かしたのは、何よりも熊雄恩師の鈴木米次郎の清国留学生への音楽指導経験などの話であり、清国留学生への教育の意義への熱意であったろう。40年4月23日付東洋音楽学校設立認可願に添付された「付記」では、熊雄恩師の鈴木米次郎は、明治34年4月「始めて清国語唱歌を作り清国留学生会館に於て之を教授し清国教育の端緒を開」いたとある(Gao
Jing.「鈴木米次郎の清国留学生に対する音楽教育との関わり」『人間と社会の探求』慶応義塾大学、61号、2005年)。米次郎は清国留学生の音楽教育に既に34年以前から乗り出していた事が確認されよう。
騒音問題 ケーべルは、騒音を想定して清国留学生会館に一抹の不安を表明したかもしれないが、結局、自らも教育従事者として照子の提案に賛成したことであろう。実際、魯迅の「藤野先生」という短編によると、「中国留学生会館の門衛室ではちょっとした本が手に入ったので、ときどき顔を出してみるだけのことはあった。午前中なら、奥の洋間で休むこともできた。だが、夕方になると、あるひと間の床がきまってドスンドスンと鳴り出し、そのうえ部屋中にもうもうたる埃が立ちこめるのである。消息通に尋ねてみると、「なあに、ダンスの練習をやっているんですよ」とのことであり、「よその土地へ行ってみたら、どうだろう」として、魯迅は東京を離れ、仙台の医学専門学校への移動を決意するのある。これが明治37年、魯迅が24歳の時であり、そのきっかけとなったのが、東京で享楽の学生生活をおくる同胞の騒音だったというのであるから、ケーべルは一定度騒音に悩まされたに違いない。
なお、ロシア出身のケーベルは、生地の宗教であるギリシア正教のニコライ堂と、原田邸の近くにある神田キリスト教会(パリ外国宣教会が、明治7年1月に神田猿楽町にフランシスコ・ザビエルを保護聖人とする聖堂を構築)との間で宗教的に葛藤し、最終的にカソリックに改宗した。
留学生会館での音楽教育 この留学生会館にはピアノが設置され、35年11月から鈴木米次郎は既に指導していた沈心工、曽志サら生徒と清国公使館の要請のもとにここでの楽教育に従事した(武石みどり監修『音楽教育の礎』79頁)。Gao
Jing氏は、35年に「清国留学生会館にて発足した音楽講習会の発起人は沈心工」であり、沈回想によると、「清国留学生会館で音楽講習会が開かれ、その教師として鈴木米次郎が招かれ」、「その際、留学生に音楽を学びたいという要望があったので、駐日公使を通して鈴木米次郎に声がかかったものと考えられる」(Gao
Jing.「鈴木米次郎の清国留学生に対する音楽教育との関わり」『人間と社会の探求』慶応義塾大学、61号、2005年)としている。
沈心工の帰国後は、明治37年5月、「曽志サは留学生会館に亜雅音楽会を設立し、引き続いて鈴木米次郎の指導を受けた」(武石みどり監修『音楽教育の礎』79頁)。米次郎履歴によると、「同国学生監督及び公使等の依嘱により亜雅音楽会を設立し学校唱歌及楽書を教授」し「爾後今日毎年百余名の学生を修業せしむ」(Gao
Jing.「鈴木米次郎の清国留学生に対する音楽教育との関わり」『人間と社会の探求』慶応義塾大学、61号、2005年)。曽志サが清国学生監督・公使らに要請し、公使らが米次郎に要請したのであろう。「亜雅音楽会の開会式(7月17日)には、留学生の独唱やオルガン・ピアノの演奏が披露され、鈴木米次郎が挨拶、来賓には伊沢修二(元東京音楽学校長、貴族院議員)が招かれた」(武石みどり監修『音楽教育の礎』79頁)。
この亜雅音楽会では音楽速成がなされ、「『亜雅音楽会之歴史』という記事(『新民叢報』明治37年8月)によれば、1年3学期制(第一学期=速成科三ケ月、第二学期=普通科三ケ月、第三学期=高等科六カ月)の唱歌講習会と、三ケ月一学期制の音楽講習会が開かれ」(武石みどり監修『音楽教育の礎』79頁)ていた。
明治37年8月、米次郎は、清国留学生教育に専念するべく高等師範学校を退職し、「9月から弘文学院で清国留学生を教育し始めた」(武石みどり監修『音楽教育の礎』80頁)。また、同じ頃開設の経緯学堂(明治大学分校、神田錦町三丁目)で、明治38年4月から教鞭をとり、ここには「速成で学校用音楽を学ぶ課程」である「音楽班」が設置され、「唱歌・音楽理論・風琴(オルガン)練習の三科目を毎週六時間(月水金の午後四時―六時)勉強し、期限は一年間であった」(武石みどり監修『音楽教育の礎』81頁)。
鈴木米次郎履歴によると、米次郎は、38年2月「先に依嘱されたる湖南学生三十余名の一年音楽教育を修了」し、38年4月私立経緯学堂の講師を託せられ、38年6月江蘇留学生五十余名の一年音楽講師を修了し、39年2月に直隷省留学生四十余名の一ヶ年音楽講習を修了し、40年3月河南留学生二十一名の一ヶ年音楽講習を修了したとある(Gao
Jing.「鈴木米次郎の清国留学生に対する音楽教育との関わり」『人間と社会の探求』慶応義塾大学、61号、2005年)。
米次郎の教材作成 鈴木米次郎や弟子の清国留学生らは清国留学生向けの中国語教材を作成した。つまり、明治37年『楽典教科書』(明治25年に米次郎が刊行していたオシレー著『新編音楽理論』)を中国訳し、明治38年には、@「米次郎の音楽全書の構想を引き継ぎ・・留学生総会から曽志サ編『袖珍音楽全書』を刊行し、A米次郎構想の音楽全書シリーズを土台に、陳邦鎮ら編『音楽学(湖北師範生教科書)』を出版し、B米次郎は、亜雅音楽会の幹事厳智怡の協力で音楽全書第二編『風琴新教科書』を出版したのである(武石みどり監修『音楽教育の礎』91頁)。
「当時、留日学生のテキストとして使われていた鈴木の著書『楽典大意』は、後に留日学生の手によって中国語に翻訳されたが、その版数は数種類にも及んでおり、鈴木自身もそれらの訳本の序言を寄せていた」(Gao
Jing.「鈴木米次郎の清国留学生に対する音楽教育との関わり」『人間と社会の探求』慶応義塾大学、61号、2005年)。
こうして、鈴木米次郎は近代中国唱歌史上で小さくない役割を発揮し、また「米次郎が指導した多数の清国留学生のうち、特に沈心士や曽志サは中国学堂落歌の導入者として重要な役割を果たし」、「米次郎は中国近代音楽教育史の中でも必ず言及される存在となった」(武石みどり監修『音楽教育の礎』92頁)のである。
革命運動の拠点 清国政府にとって、日本は清朝打倒の革命拠点になる危険地域となって、やがて留学生を激減させ、留学生会館の存在根拠を稀薄化させていった。
当時の欧米の「留学生以外の中国人」は「主に労働者や商売人であった」が、日本では康有為(1898年「戊戌の変法」の中心人物だったが、西太后ら保守派のクーデター[戊戌の政変]で失脚し、日本に亡命)、梁啓超(康有為の共鳴者)、章炳麟(康有為の共鳴者、漢民族による満州人清王朝打倒を提唱)、孫文(清朝打倒、三民主義を提唱)、黄興(孫文らと中国革命同盟会を結成)など、少なからざる「亡命の有識者」が集まっていた(周嘉寧「革命前夜の日本への「清国留学生」について」)。35年、警察関与で失敗したが、「章炳麟が東京で『支那亡国二百四十二年記念会』を開き、百名以上の学生を集め」て、「留学生の排満情緒」の民族主義は、「近代化の訴求と共に、学生たちを革命の道へと導いた」(周嘉寧「革命前夜の日本への「清国留学生」について」)のである。
そこで、清国政府は、「留日学生の政治に対する関心が高すぎ」、「多くの留学生が直接反政府運動に取り組ん」み、「康有為や梁啓超、さらに章炳麟、また、職業革命家とも言える孫文や黄興」ら亡命志士は、「在日留学生を絶好の対象とみて、積極的に篭絡し」ようとし、清国留学生の政治運動を促していたとした。そこで、清国政府は日本当局に「留学生への管制を呼びかけ」、38年に日本政府は清国留学生取締規則を制定した。その第9条によっで「清国留学生の学校規定宿舎以外の下宿が取り締まれる」とし、第10条によって「学校の他校に退校させられる「性行不良」な生徒を受け入れることが禁止され」て、「革命活動に夢中になっていた血気盛んな学生」の抵抗を生み、39年「法政大学の陳天華の自殺事件がきっかけで、運動が広がり、一斉帰国という重大な事態に陥った」(周嘉寧「革命前夜の日本への「清国留学生」について」)のであった。
留学生は相互強力、情報収集などのために「同郷会」を結成したが、「実は、38年に革命戦線『同盟会』を結んだ三つの団体のうち、興中会は広東省、華興会は湖南省、光復会は浙江省、いずれも同郷会の色彩が濃」く、いずれも「神田駿河台にあった」のである(周嘉寧「革命前夜の日本への「清国留学生」について」)。革命家ではない魯迅は「光復会の活動によく参加したが、革命政党に加入したというより、むしろ同窓や浙江省出身の同郷との一種の付き合い」だが、こうした同郷意識が革命の温床になった。やがて「取締事件は徐々に落ち着」き、「各校の授業は次々と再開し、再び渡日する学生も出てきた」が、留学生管制強化を嫌い、「日本の速成教育よりむしろ欧米に行って直接に西洋文明を学習しようという考えも加わり」、「日本留学風潮の時代は終わりを告げ」(周嘉寧「革命前夜の日本への「清国留学生」について」)ようとしていた。
清国留学生会館は、明治39年頃頃をピークに、連絡所のほか、革命雑誌や宣伝図書の出版地という側面を帯ていた(さねとう・けいしゅう著『中国人日本留学史』くろしお出版、1960年、195−203頁)。翌40年には,北神保町の「中華留日基督教青年会館(中華青年会館)」に留学生が移り、清国留学生会館は衰微していった。この衰微は、会館の清国留学生管理能力がなくなり、革命を嫌う清国公使館の資金援助がなくなり、清国留学生会館での音楽教育も東洋音楽学校の開設でなくなったことにもよろう。
42年には、留学生激減で早稲田大学でも清国留学部は閉鎖された(さねとう・けいしゅう著『中国人日本留学史』74頁)。
三 東洋音楽学校
清国視察 鈴木米次郎は、「東洋音楽学校設立に踏み切る半年前に、明治39年12月17日に東京を発ち、上海、江蘇省(南京、蘇州)、安徽省、湖北省(漢口・武昌)などを学事視察し、明治40年1月24日に帰国した」(武石みどり監修『音楽教育の礎』82頁)。
「学校名を東洋とした理由」について、米次郎が『支那のことばで東洋は「トンヤン」で、日本と言う意味』」と考えたからである。つまり、米次郎は、日本人にはアジア、清国人には「日本」を意味する言葉として東洋という語を使ったのである。武石氏は、「学校の設立にあたって清国留学生の存在を強く意識」しており、「西洋音楽をアジアで最初に系統的に学校教育に取り入れた日本の音楽学校が、アジアの音楽教育の発信地になるという壮大な気概もあったことであろう」(武石みどり監修『音楽教育の礎』134頁)とする。
設立願い 明治40年4月23日付で私立学校設立認可願が東京府知事宛に提出され、29日付で認可の書類が作成され」、次いで9月に校長認可願が提出され、設立目的は「汎く音楽に関する学科及術科を教授し以て高潔なる品性の修養を得せしめる」(武石みどり監修『音楽教育の礎』101頁)とある。
設立願書では、「年間収入が授業料と入学料300名分で合計6900円、支出が給与・消耗品・借地料等で合計6900円、そのほかに楽器・椅子・楽譜等の備品費合計3200円は設立者自弁し、さらに年間収支のバランスが整わない場合は、『設立者に於て私財を提供し之が基礎を確立す可し』とある」(武石みどり監修『音楽教育の礎』102頁)。
東洋音楽学校は、開業前に、朝日新聞に二回募集広告を出している。つまり、明治40年8月11日「広告」では、「私立東洋音楽学校新築落成 来九月授業開始 本科及特別科生を募集す 入学申し込みは八月中 詳細は神田裏猿楽町本校へ照会あれ」とし、明治40年8月29日「広告」では、「東京神田裏猿楽町六番地 私立東洋音楽学校 設立者兼校長 鈴木米次郎 9月11日授業開始の本科第一年及特別科生を募集す」とした。
対清関係の希薄化 明治40年12月17日、「亜雅音楽会の催しとして、前清国公使の送別会を兼ねた音楽会を東洋音楽学校で開催している」(武石みどり監修『音楽教育の礎』133頁)。清国留学生会館ではなく、東洋音楽学校で公使送別会を開催しているということは、清国留学生教育場所が、清国留学生会館から東洋音楽学校に移った事を示している。
明治41年9月『やまと新聞』には、東洋音楽学校については、「支那人学校と云はれる程で在学生の七八分は支那人の様である」とあり、武石氏はこれは「誇張」(武石みどり監修『音楽教育の礎』134頁)とするが、当初は鈴木米次郎の清国留学生指導の実績と、清国政府の支援と期待もあって、清国留学生が多かったのであろう。しかし、前述の如く、清国政府が日本留学を危険視して抑制したため、後が続かなかった。その結果、明治44年1月21日、東京府内務部長宛動静報告では、清国人留学生は本科に男子二名、特別科に女子三名、大正3年では一人となっている。一方、東京音楽学校の清国留学生もまた、明治44年6人、大正3年7人(武石みどり監修『音楽教育の礎』134頁)と少なくなっている。
移転 東洋音楽学校は、関東大震災で焼失し、猿楽町敷地に再建されることはなかった。大正11年5月、原田熊雄は、西園寺推薦で宮内省嘱託として「欧州における社会事業視察」のために渡欧することになり、その渡欧費用に充てるために、猿楽町原田邸3千坪を40万円で明治大学に売却していたからである(勝田龍夫『重臣たちの昭和史』上、51頁)。しかも、既に照子も死去しており、土地が売却され、再建できなかったのであろう。
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